――三日後 翔の祖父であり、鳴海グループ総合商社の会長である鳴海猛が3カ月ぶりに日本の地へと降り立った。空港のロビーまで出迎えに来ていた翔と琢磨が猛を見ると頭を下げた。「会長、お帰りなさいませ」「ああ、ただいま。どうだ? 副社長、会社の様子は?」強面の顔に髪を全て上になでつけ、高級なスーツに身を包んだ猛はたった一代で財を成し遂げた強者だ。それ故、誰もが彼に頭が上がらず、意見する事すら出来ない。しかし、翔はそれではいけないと考えていた。誰もが上の人間の顔色ばかり窺っていては企業としては成長出来ないのでは無いだろうか?なので自分が社長に就任した暁には誰でも自由に発言できるような社風に変えたいと常日頃から考えていた。「ええ。まずまずですよ。株価も少しずつ上昇しておりますし。ライバル企業との契約に勝ちましたからね」翔は笑みを浮かべる。「そうか、なら結構。それより早く社に戻って少し休みたい。何せ飛行機の中に13時間もいたのだからな。体を伸ばしたい」猛の言葉に翔は首を傾げた。「会長……? 我々はファーストクラスの座席を手配したつもりですが?」「翔! それがいけない! 私はまだまだ元気だ。ファーストクラス等無用の長物だ」そして豪快に笑う。やれやれ、また始まった……。翔と琢磨は心の中でため息をついた。祖父である猛は75歳と言う年齢ながら、1年中海外を飛び回り、休暇は体を鍛える事と、剣道にもいそしむという豪傑ぶりである。一代で鳴海グループ総合商社を築き上げた苦労人で、それ故にとにかく自分が余分と感じたものに対しては徹底的に節制に励んできたのだ。その時の苦労からか、いまだに出費を嫌う。そしてそれを自分だけでなく、社員全員にも徹底させるのだ。なので、今回のように例えフライト時間が10時間を超えようともビジネスクラスは使わせず、エコノミーで行かせるという徹底ぶりである。 こういった社風も変えさせたい翔。大体フライト時間が10時間越では疲れも溜まる。そんな疲れきった状態で、大事な商談がうまくまとまるとは到底翔には思えなかったのである。その為にも祖父には早々に引退してもらわなければ……。しかし、そんな考えをおくびにも出さず、翔は頷いた。「はい、承知致しております。社の車で迎えに来ておりますので、今正面玄関に車を付けるように連絡を入れますのでお待ち下さい」その
早いもので、翔の祖父である猛との初顔合わせから3ヶ月が過ぎようとしていた。あの後、猛から結婚式はどうするのだと散々言われたのだが、2人の結婚は偽装結婚。式など挙げられるはずが無い。何とか猛を説得し、ようやく書類だけの結婚を認めさせる事が出来たのだ。朱莉が大仰な事はしたくない、結婚式等不要だと強く希望したからだという理由で。勿論翔が、そういうことにして欲しいと朱莉に頼んだのは言うまでもない。明日香の手前、結婚式など到底挙げられるはずない。朱莉は甘んじてその話しを受け入れた。所詮、自分は偽装妻であり、書類上だけの夫婦なのだから。 猛は酷く残念そうな様子ではあったが、結婚は書類だけ提出すればよいだけなのだから、無駄な事はしなくても良いですと朱莉が言った事により、猛は賛同したのである。 そして季節は流れ、8月になった――朱莉はエアコンの効いた部屋で、パソコンに向かって通信制高校のレポートの課題に取り組んでいた。すると、突然朱莉のスマホに着信を知らせる音楽が鳴り響いた。(翔先輩からかな?)スマホをタップすると、やはり相手は翔だった。猛との面会後、3カ月が経過するが朱莉と翔はまだ1度も会ってはいなかった。ただメッセージの交換だけは1週間に1度、週末の金曜日だけ行っていた。内容は主に朱莉の勉強の進捗状況や、お互いの最近身近にあった報告……そんな単純なメッセージのやり取りではあったが、それでも朱莉は翔とのメッセージのやり取りを楽しく感じていた。この億ションに住み初めてからは、偽装結婚が周囲にバレないように、なるべく色々な人達と不要な接触はしないで欲しいと翔から最初に釘を刺されていた。その為、朱莉は誰とも連絡を取らず、唯一会話をする相手は毎日面会に行く母と、病院関係者のみであった。なので人との会話に正直飢えていたので、週に一度のスマホでのメッセージのやり取りは朱莉にとっては幸せなひと時であった。それにしても……。「おかしいな? 今日は金曜日じゃないのにメッセージが届くなんて」朱莉の表情が曇る。ひょっとして何かあったのだろうか? もしかして会長が引退を決意したので離婚しようと言う内容なのだろうか……?不安な気持ちを抱えながら、朱莉はスマホをタップした。『こんにちは、朱莉さん。実は祖父から連絡があって、結婚式も挙げないのだから、2人で一緒にハネ
時刻は30分ほど前に遡る。「はあ~」翔はオフィスでPC画面を見ながら派手なため息をついている。「どうしたんだ、翔」翔のオフィスで秘書としての仕事をしていた琢磨がため息を聞きつけて、声をかけた。「これなんだが……」翔はPC画面を指さしながら二度目のため息をついた。「へえ~どれどれ……」琢磨が近づいてきて、PC画面をのぞき込んだ。「うん? モルディブ……? お前旅行にでも行くのか?」「いや、違う。さっき祖父からのメールで、今月の18日から25日までモルディブにハネムーンへ行ってくるように言われたんだ……。全く……」翔は頭を掻き毟ると、椅子の背もたれによりかかり、天井を向いて3度目のため息をついた。「へえ~いつも余分な出費を嫌う会長なのに、お前と朱莉さんが挙式しなかったから、気を利かせてくれたんだな。いいじゃないか、行って来いよ」「しかし……」翔が言いよどむと琢磨は首を傾げる。「何だ? もしかして会社の事気にしてるのか? いいか? 今はパソコンさえあれば世界中どこにいても仕事は出来るんだから、いいじゃないか。あ、でもだからと言って、旅先で無理に仕事しろって言ってるわけじゃないぞ? ハネムーン中は仕事の事は忘れて朱莉さんと楽しんで来いよ」琢磨はこう考えていた。いくら偽装結婚とはいえ、3カ月前に会ったきりで、メッセージは週に一度。これではあまりにも朱莉に冷たすぎるのでは無いだろうかと常日頃から思っていたのだ。(この旅行で二人の仲が近づけばいいのだが……)「しかしなあ……」翔はまだ考え込んでいたが、琢磨が急かした。「いいから早く朱莉さんにメッセージを送れよ!」そこで渋々翔は朱莉にメッセージを送った――そして朱莉からメッセージが届いた。それを目にした途端、翔は目を疑い……次に声を荒げた。「ったく! なんでなんだよ!」「どうしたんだ? 翔」琢磨は珍しく翔が声を荒げたので、驚いた。「どうしたもこうしたも……断ってきたんだよ」「え? 何だって?」「だから、朱莉さんがハネムーンに行くのを断ってきたんだよ! ほら! 見てみろよ!」仏頂面で翔は琢磨に自分のスマホを渡した。「うん? 俺が見てもいいのか?」「ああ」琢磨は翔のスマホに目を落とした。『こんにちは、申し訳ございません。折角のお誘いですが、今回の件はお断りいたします。
その日の夜――「明日香。突然なんだが今月の18日から25日まで2人で一緒にモルディブへ行かないか? 実はもう飛行機もホテルも予約済みなんだ」「本当に!? 行きたい! 行くに決まってるでしょ!」明日香は目を輝かた。「そうか。よし、それじゃ一緒に行こう」翔は笑顔で答える。「2人きりで旅行なんて本当に久しぶりよね。嬉しいわ……今から楽しみ。そうだ。新しい水着買わなくちゃ。それに洋服も」「ああ、好きにするといいさ」「だけど……」明日香の顔が曇る。「急に一体どうしたっていうの? 今までの翔ならこんな急に予定を立てたりしないのに」ジロリと翔を睨み付ける。「う……。そ、それは……」(参ったな……。相変わらず明日香は勘が鋭くて困る)翔は思わず苦笑するが、その表情を明日香に見られてしまった。「ほら! その顔! 絶対に何か隠してるわね? 正直に言いなさいよ」「わ、分かったよ……」翔は溜息をつくと、今までの経緯を全て話した。突然朱莉とハネムーンへ行くように祖父に勝手に日程とホテルを予約されてしまった事等……。話を聞き終えると明日香は激怒した。「何よ、それ! それじゃあ私は2人のハネムーンのおまけで付いて行くって訳ね? 何が2人でよ! 嘘つかないでよ!」目に涙を貯め、ヒステリックに叫ぶ明日香に翔は必死で宥める。「違う、落ち着いて良く聞けって。俺はな、最初から明日香、お前を連れて行くつもりだったんだからな?」「え……? 翔……? その話、本当なの?」目にうっすら涙を浮かべつつ、明日香は信じられないと言わんばかりの目で翔を見つめる。「ああ、当たり前じゃないか? 明日香を1人日本に残して旅行になんか行けるはず無いだろう?」翔が明日香の頭を優しく撫でる。「本当に……? 嬉しい!」明日香は翔の首に腕を回して抱き付く。「でも……朱莉さんも一緒に行くのよね……」「何言ってるんだ。2人で行こうってさっき言ったばかりだろう? 彼女は行かないよ。俺と明日香の2人で行くんだよ。入院している母親を置いて、1週間も日本を離れたくないって言うんだ」本当は翔にだって、その話が朱莉が旅行に行きたくない為の言い訳だと言うのは重々承知していた。「ええ? ハネムーンなのに? それっておかしいんじゃないの?」明日香はそう言ったが、朱莉と言う邪魔者がいない翔との旅は想
翌朝――翔が出社するとすぐに明日香は朱莉にメッセージを送った。『おはよう、朱莉さん。大事な話があるの。今すぐ私達の部屋へ来てくれるかしら? 部屋番号は1902号だから。待ってるわ』それだけ打つと明日香は朱莉からのメッセージを待った。わざと私達の部屋と、朱莉にとってチクリとする言葉を取り入れる事を忘れなかった。すると5分も経たないうちに朱莉から返信が来る。『分かりました。すぐに伺います』明日香はそのメッセージを見ると、満足そうに笑みを浮かべた――――ピンポーン部屋にインターホンの音が響き渡る。――ガチャリドアを開けて、明日香は朱莉の余りの変貌ぶりに驚いてしまった。茶色がかかった二重瞼の大きな瞳。彫りの深い顔立ち、ふんわりと柔らかく波打つウェーブの髪……。最初に会った野暮ったい朱莉とは雲泥の差だった。明日香は内心の動揺を押さえつつ、言った。「あ、あら。貴女垢抜けしたみたいじゃない。中々似合っているわよ」「ありがとうございます」素直に頭を下げる朱莉に何故か明日香はイラついてしまう。(フン。何よ……スカした態度取ってくれちゃって……。どうせ私の事馬鹿にしてるんでしょう?)「まあいいわ。中に入ってちょうだい」明日香は朱莉を部屋の中に案内した。明日香と翔の部屋は生活感が溢れていた。同じ間取りなのに全くの別の部屋に見えてしまうから不思議だ。「そこにかけて」朱莉は明日香に勧められるまま応接セットのソファに腰を下ろす。朱莉が座るのを見届けると自分も座り、いきなり話を切り出した。「朱莉さん……。貴女モルディブへは行かないそうね?」「はい。病院に入院している母が心配なので……」朱莉は少し俯き加減に言うが、明日香には朱莉の嘘をすぐに見抜いた。(嘘ね。きっと翔に何か言われたんだわ。おおかた現地に着いたら自由に過ごしていいとでも言われたんじゃないかしら?)明日香は意地悪そうな笑みを浮かべた。「ねえ、貴女……自分の立場を分かってるの?」「え?」「貴女の役目は周囲を騙して偽装妻を演じる事よね?」「は、はい……そうですけど……?」「祖父は貴女が本当にハネムーンへ行ったのか、証拠写真を送れと言ってくるかもしれないわ。それに日程まで指定して来たと言う事は祖父もモルディブへ来るかもしれないって考えに至らない?」明日香の話に朱莉は顔色を変えた。確
翌朝――朱莉はスマホを握りしめ、重い足取りでパスポートセンターを出てため息をついた。どうせモルディブへ行くなら、いっそ一人で行きたかった。密かに朱莉は心の中で旅行に行けなくなることを期待していたのだが……。(この時期だから航空券等取れるとは思っていなかったのに……) 結局、昨日朱莉は明日香に説得されてやむを得ずモルディブへ行く事を承諾させられてしまったのだ。午前中の内にパスポートセンターに行って発行手続きを済ませれてくるように言われた朱莉は憂鬱な気持ちのまま手続きを済ませてきた。そしてその帰り道、明日香からモルディブへ行く飛行機の手配とホテルも予約することが出来たので必ず一緒に行くようにとのメッセージが送られてきたのだ。 翔からは現地に着いたら自由行動をして構わないと言われているが、英語もフランス語も話せないような自分が一人で行動する事等出来るのか不安だった。現地のガイドを雇う事は可能だろうか? 明日香に頼んでもそれ位一人でやりなさいと言われそうだし、翔に頼めば恐らく明日香に知れてしまうだろう。それに明日香の手前、翔に直接頼みごとをするのは良くない事をしている気分になってしまう。そうなると、思い浮かぶ相手は1人しかいなかった。「九条さん……あの人にお願いしてみよう……」朱莉はスマホをタップした―― 着信音と共に、琢磨のスマホにメッセージが届いた。いつものように翔のオフィスで仕事をしていた手を止めてスマホに目を通し、驚いた。(え? 朱莉さん……? 何故突然俺のスマホにメッセージを送ってきたんだ?)思えば朱莉とのメッセージのやり取りはPC設置の時以来、実に3カ月ぶりだった。琢磨は翔の様子を伺った。広々としたデスクの上に何台ものPCを並べ、画面を食い入るように見ている翔にスマホでメッセージが届いた様子は無かった。と言う事は翔には連絡せずに直接自分にメッセージを送ってきた事になる。(何か困ったこ事でもあったのだろうか? 翔にも相談出来ないような何かが…?)琢磨は翔に気づかれないように背中を向けるとメッセージを開いた。『お久しぶりです、九条さん。お忙しいところ、メッセージを送ってしまい、申し訳ございません。実はハネムーンと言うことで翔さんと明日香さんとの3人でモルディブへ行くことが決定しました。ただ、現地に着いたら自由に行動してよいと言われたの
その日の夕方。朱莉がPCに向かってレポートを書いているとスマホがなった。相手は琢磨からだ。「九条さん……。良かった……忙しい人だから今日中に連絡がこないと思っていたのに。それとも断りのメッセージなのかな?」若干の不安な気持ちを抱えつつ、朱莉はメッセージを開いた。『朱莉様。お返事が遅くなりまして、申し訳ございませんでした。本日、日本の代理店より現地のツアーコンダクターと連絡が取れました。その人物は現地在住12年目の日本人女性です。8/18~25日まで現地案内及び、通訳をお願いしました。料金はもう支払い済みですのでご心配なさらずにモルディブでの観光をお楽しみ下さい。滞在するホテル名が分かり次第、また私に連絡を下さい。どうぞよろしくお願い致します。PS:副社長には内緒で手配しましたので、ご安心下さい』(九条さん……)久しぶりに誰かに親切にしてもらって、朱莉は目頭が熱くなるのを感じた。本来ならこのようなことは翔に頼むべきなのに、頼みの綱の彼は明日香と通じ、彼に頼もうものなら全て明日香に筒抜けになってしまう。頼りたい相手に頼ることが出来ないことが、こんなにも不安な気持ちになるとは思わなかった。「でも、誰かに頼らなくても、1人で何でも出来るような人間にならなくてはいけないってことだよね? だって翔さんと明日香さんとの間に赤ちゃん生まれたら私が一人で育てていかないとならないんだから。もっともっと強い人間にならないとね。そうだ、明日香さんに、どこのホテルに泊まるのか聞いておかなくちゃ」自分に言い聞かせると、朱莉は明日香にメッセージを送った――****―21時過ぎ「翔、朱莉さんがパスポート取得してきたわよ」会社から帰宅してきた翔にしなだれかかるように明日香が言った。「そうか。でも良かったよ。彼女が行く気になってくれて。これも明日香のおかげだな。ありがとう」内心、複雑な気持ちを抱えつつも翔は明日香にお礼を述べた。「いえ、どういたしまして。飛行機も無事とれたしね。やっぱりVIP扱いされていると、便利よね。私たちと同じ飛行機に搭乗することが出来たから」「そうか、彼女もファーストクラスに乗るのか?」翔の言葉に明日香は眉をひそめた。「え? 何言ってるのよ翔。彼女はエコノミークラスに決まっているでしょう?」「え……? 朱莉さんだけエコノミーに乗せるのか
8月18日―― 今日からモルディブへ1週間の名目だけのハネムーンが始まる。朱莉は手元にある航空券を見てため息をついた。明日香からは現地のモルディブで集合しようと言われたが、そこは丁寧に断りをいれさせてもらった。その際に、言葉も話せなくて大丈夫なのかとか、海外旅行なんか貴女は行ったことは無いでしょう?等嫌味は言われたが……そこは黙って聞いていた。最近になって明日香の事が分かるようになってきたのだが、要は明日香の気に障らない態度を取っている限りは、特に嫌味を言われることも無いのだ。到着当日は現地に住む日本人ガイド女性が空港まで迎えに来てくれる事になっている。朱莉が個人的に現地のガイド兼通訳を雇っているのはもう知っているが、その女性が空港まで朱莉を迎えに来てくれているのが分かれば、きっと明日香の機嫌が悪くなるだろう。泊まるホテルは同じだが、明日香と翔は本館。そして朱莉は別館で、隣り合ったホテルとなっていた。現地集合と言われても何の意味もないことは朱莉には良く分かっていたので、事前に自分の方から一人で観光するので、二人で旅行を楽しんでくださいと連絡を入れておいたのだ。その際も嫌味に取られないように、慎重に文面を考えて、同じメッセージを2人同時に送ったのだ。その事をガイド女性に告げると、何と彼女から当日は空港まで迎えに行き、一緒に食事をしましょうと言われたのである。朱莉は貴重品を入れているショルダーバックから手帳を取り出した。そこには現地のガイド女性の名前、電話番号から、メールアドレス等が記載されている。この女性の名前はコジマ・エミという名前で、朱莉よりも10歳年上の36歳の女性。12年前からモルディブに住み、3年前に現地の男性と結婚したと、プロフィールには書いてある。彼女とはもうメールで何回も連絡を取り合っているので、準備していくべきもの等様々な情報を教えてもらった。彼女のおかげで朱里は迷うことなく旅行の準備を済ませることが出来たのである。「あ、そろそろ出なくちゃ」飛行機の便にはまだ4時間近く余裕があったが、慣れない空港であたふたしたくない朱莉は時間に余裕を持って出発することにしたのである。ガラガラと大きなスーツケースを引っ張って朱莉は億ションを後にした。****電車に乗り込むと朱莉は早速、翔と明日香にメッセージを送った。『今、電車に乗りました。念
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると
明日香が10年分の記憶を失い、高校生だと思い込んでいる話は朱莉にとってあまりにもショッキングな話であった。「朱莉さん、大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」「は、はい。大丈夫です。でもそうなると今一番大変なのは翔先輩ではありませんか?」朱莉は翔のことが心配でならなかった。あれ程明日香を溺愛しているのだ。17歳の時、翔と明日香は交際していたのだろうか? ただ、少なくとも朱莉が入学した当時の2人は交際しているように見えた。「朱莉さん、翔が心配かい?」琢磨が少し悲し気な表情で尋ねてきた。「はい、とても心配です。勿論一番心配なのは明日香さんですけど」「やっぱり朱莉さんは優しい人なんだね」(あの2人に今迄散々蔑ろにされてきたのに……それらを全て許して今は2人をこんなに気に掛けて……)「何故翔さんは九条さんに連絡を入れてきたのですか? それに、どうして九条さんから私に説明することになったのでしょう?」朱莉は琢磨の瞳をじっと見つめた。「俺も、2日前に翔から突然メッセージが届いたんだよ。あの時は驚いた。翔と決別した時に、アイツはこう言ったんだよ。互いに二度と連絡を取り合うのをやめにしようと。こちらとしてはそんなつもりは最初から無かったけど、翔がそこまで言うのならと思って自分から二度と連絡するつもりは無かったんだ。それなのに突然……」そして、琢磨は近くを通りかかった店員に追加でマティーニを注文すると朱莉に尋ねた。「朱莉さんはどうする?」「それでは私はアルコール度数が低めのお酒で」「それなら、『ミモザ』なんてどうかな? シャンパンをオレンジジュースで割った飲み物だよ。アルコール度数も8度前後で、他のカクテルに比べると度数が低い」琢磨はメニュー表を見ながら朱莉に言った。「はい、ではそちらを頂きます」「かしこまりました」店員は頭を下げると、その場を立ち去っていく。すると琢磨が再び口を開いた。「明日香ちゃんは自分を高校生だと思い込んでいるから、当然翔の隣にはいつも俺がいるものだと思い込んでいるらしいんだ。考えてみればあの頃の俺達はずっと3人で一緒に高校生活を過ごしてきたようなものだからね。それで明日香ちゃんが目を覚ました時、翔に俺のことを聞いてきたらしい。『琢磨は何処にいるの?』って。それで一計を案じた翔が明日香ちゃんを安心させる為に、もう一度3人で会いた
「九条さんが【ラージウェアハウス】の新社長に就任した話はニュースで知ったんです。あの時九条さん言ってましたよね? 鳴海グループにも負けない程のブランド企業にするって」「ああ、あの話か……。あれは……まあもう1人の社長にああいうふうに言えって半ば命令されたからさ。自分の意思で言った訳じゃ無いが正直、気分は良かったな」琢磨は笑みを浮かべる。「あの翔に一泡吹かせることが出来たみたいだし。初めはテレビインタビューなんて御免だと思ったけどね。大分、翔の奴は慌てたらしい」朱莉もカクテルを飲むと琢磨を見た。「え? その話は誰から聞いたんですか?」「会長だよ」琢磨の意外な答えに朱莉は驚いた。「九条さんは会長と個人的に連絡を取り合っていたのですか?」「ああ、そうだよ。実は以前から会長に秘書にならないかと誘われていたんだ。でも俺は翔の秘書だったから断っていたんだけどね」「そうだったんですか」あまりにも驚く話ばかりで朱莉の頭はついていくのがやっとだった。「それにしても朱莉さんも随分雰囲気が変わったよね? 前よりは積極的になったようだし、お酒も飲めるようになってきた。……ひょっとして沖縄で何かあったのかい?」琢磨の質問に朱莉は一瞬迷ったが、決めた。(九条さんだって話をしてくれたのだから、私も航君のこと、話さなくちゃ)「実は……」朱莉は沖縄での航との出会い、そして別れまでを話した。もっとも名前を明かす事はしなかったが。一方の琢磨は朱莉の話を呆然と聞いていた。(まさか朱莉さんが男と同居していたなんて。しかもあんなに頬を染めて嬉しそうに話してくるってことは……その男、朱莉さんに取って特別な存在だったのか?)朱莉が沖縄で男性と同居をしていた……その事実はあまりに衝撃的で、琢磨の心を大きく揺さぶった。「それでその彼とは東京へ戻ってからは音信不通……ってことなのかい?」内心の動揺を隠しながら琢磨は尋ねた。「はい。そうです。だから条さんとは連絡が取れて嬉しかったです。ありがとうございました」お酒でうっすら赤く染まった頬ではにかみながら琢磨にお礼を言う朱莉の姿は琢磨の心を大きく揺さぶった。「そ、そんな笑顔で喜んでくれるなんて思いもしなかったよ。でも……そうか。朱莉さんが以前よりお酒を飲めるようになったのはその彼のお陰なんだね?」「そうですね……。きっとそう